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精神分析というお仕事 −専門性のパラドックス− アダム・フィリップス著 妙木浩之/訳
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精神分析家は何の専門家か? | |
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鈴木 晶 | |
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| 一見柔らかそうなタイトルとは裏腹に、専門書である。それもかなり高度な。しかも著者の文体に癖があるために、かなり読みにくいと言わさるを得ない。とはいえ、きわめて重要な本であることは間違いない。 精神分析家は一体何の専門家か、というのが主題である。たとえば外科医や歯科医の場合だったら、いやもっと広く、法律家や物理学者の場合だったら、こういう問いは発せられないだろう。こういうこういう問いが成立するところに、精神分析家の立場の特殊性がある。 にもかかわらず、旧世代の、かつ主流の精神分析家たちは自分が「こころ」の専門家であることに疑問をもたなかった(フロイトの愛弟子サンドールフェレンツィはその例外的な存在で、本書でも彼とフロイトとの関係に1章が割かれている)。そうした精神分析家たちの立場を著者および訳者は彼らの立場を「科学的精神分析」「啓蒙的フロイト主義」と呼び、かれらの「科学主義」「医学主義」への反省からうまれた流れを「ポストフロイト主義」と呼ぶ。当然ながら、著者はこの流れに属する。 あらためていうまでもなく、精神分析学は純粋な論理的作業から生まれたのではなく、フロイトのもとを訪れた神経症患者との交流を通じて作り上げられていったものであり、、その意味では「臨床知」の体系である。しかしながら、フロイトは自然科学の影響を決定的に受けていたため、精神分析がいつの日か科学の一分野としての地位を確立することを夢みていた。それで、分析家=知の体現者=権威という図式がフロイトの頭から離れなかった。 精神的トラブルを抱えた人は自分よりも分析家のほうが自分のことを良く知っているに違いないと信じて分析家のもとを訪れる。ここまでは内科医を訪れる患者の場合と基本的には同じである。しかし、そこから先は異なる。内科医を訪れた患者は自分の体調に関して「しろうと」であり、内科医は権威である。だが精神分析の場合はそれほど単純ではない。分析家が果たして「知」を握っているのかどうか、そこが問題なのである。 別の面からいうと、分析家と他の分野の医師とほぼ同一視した啓蒙的フロイト主義においては、患者が持ち込む問題には「答え」があることが前提視される。分析家は「専門的知識と技術によって患者の過去をさぐり、患者の無意識には一体何が抑圧されているのかを探し当てることによって、その答えを患者に「教える」(場合によっては「押し付ける」)それにたいして、ポスト-フロイト主義は、答えよりもむしろ分析家と患者との関係の多様性と豊かさに注目しようとする。これは「真理」をとなえるラカンに対して「(分析家と患者との)愛」を対置したクリステヴァの立場に似ていなくもない。 そのため、本書は、症状、恐怖、夢、性といった事柄について、精神分析の教科書的な解説とはまったく違った、ポスト-フロイト主義の立場からの新しい視点を提示している。評者には、前述しフェレンツィとフロイトの関係を論じた章と、ジュディス・バトラーのジェンダー論(「パフォーマンスとしてのジェンダー」)を取り込んだ「性」の章がとくに面白かった。 (妙木浩之訳)(すずき・しょう氏=法政大学教授・精神分析思想史専攻) | |
| ★アダム・フィリップス(1954〜)はイギリスの児童精神療法家。オックスフォード大学卒。現在ウォルバートン・ガーデン児童家族相談センターに勤務。 | |
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週間読書人 1998年9月11日(金曜日)から引用しました
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