アイヒマン裁判描く映画公開

高橋哲哉

凡庸な人間が加担した恐ろしさ

ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を描いた映画『スペシャリスト−自覚なき殺戮者』が日本公開される。昨年3月のフランス公開以来、熱い議論を巻き起こしてきた作品だ。昨年ノーベル平和賞を受賞した「国境なき医師団」元総裁のロニー・ブローマンと、イスラエルの依嘱若手映画作家エイアル・シヴァンの共作。
ナチス戦犯アイヒマンの名は日本でも比較的知られていよう。ドイツは第二次世界大戦中、占領したヨーロッパ全域からユダヤ人をポーランドに移送し、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所で大量殺戮したが、そのユダヤ人強制移送の指揮を執ったのがアイヒマンだった。
戦後、彼は追及の手を逃れて南米アルゼンチンに潜伏していたが、イスラエルの諜報機関モサドに捕らえられ、1961年エルサレムで裁判にかけられ、「人道に反する罪」などで有罪判決を受け、絞首刑に処せられた。
当時の新聞を見ると、日本でもこの裁判に大きな関心が寄せられていたことが分かる。『スペシャリスト』は、このアイヒマン裁判を当時の記録フィルムのみによって描いたドキュメンタリー映画である。
それにしても、いま、なぜ、アイヒマン裁判なのか。
製作者ブローマンは、「国境なき医師団」での人道援助活動の経験から、またシヴァンはイスラエルの戦争への賛成忌避や、インティファーダ(パレスチナ民衆蜂起)を弾圧する同国人への批判から、アイヒマンの中に「悪の凡庸さ」の問題を見た思想家ハンナ・アーレント(1906〜1975)に共感したという。
数百万のユダヤ人を「市の工場」で「ベルトコンベヤー式」に虐殺したナチスドイツ。その下手人の一人アイヒマンなら、さぞかし悪魔のような殺人鬼にちがいない、とだれもが思っていたが、裁判を通じて浮かび上がってきたのは、まったく凡庸な普通の人間、組織の歯車として働く単なる小役人にすぎなかった。
ナチスの悪が凡庸だというのではなく、凡庸な人間が職務に勤勉で義務に忠実であることによって、巨大な悪の加担者になってしまうということの恐ろしさを、アーレントは指摘したのだ。
現代社会では、だれもがアイヒマンのような「オフィスの犯罪者」になりうる、と考えたブローマンとシヴァンは、これまで未公開だった裁判の記録映像をもとに、アーレントの見解に沿って作品を編集した。
薬害エイズ事件、ウラン加工施設の臨界事故、神奈川県警の連続不祥事など、日本でも、組織の中で個人の責任が問われるケースが相次いでいる。「自覚無き殺戮者」アイヒマンのケースは、「無責任の構造」(丸山眞男)の中で侵略戦争に突き進んだ過去を持つ日本人にとって、決して他人事ではないこの映画をきっかけに、私たちの日々の仕事の意味をもう一度考え直してみたいと思う
(東京大学助教授)


聖教新聞2000年1月11日号から引用しました

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